大日本皇道立教会のメンバー

http://www.aory.net/new4.html
▲<芳野朝廷研究会>WS/041011検索=この写真は大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)秋月左都夫第3代副会頭(前列中央、オーストラリア大使・宮内省御用掛・大正6年読売新聞社社長・正3位・勲1等)を中心にして門下の方々を写したものです。後列右から2人目の人が若き日の児玉誉士夫氏です。同じく後列左端に創価学会(設立当初は創価教育学会)創立者牧口常三郎氏がおられます。
設立当初の創価教育学会は、元々大日本皇道立教会の教旨・目的を根本として国民に新たな皇道を教育する団体として結成されました。

合同問題
【宗教団体の合同について報じる『朝日新聞』S16.4.1】


▲『宗旨建立と750年の法灯』107頁=「日蓮宗(四派)従来の九派のうち日蓮宗(総本山身延山久遠寺)顕本法華宗(同妙満寺)本門宗の三派で新に『日蓮宗』をつくり本門法華宗、法華宗、本妙法華宗の三派は『法華宗』を設立、日蓮宗不受不施、同不受不施講門の両派も合同して『本化正宗』を設立、日蓮正宗(総本山静岡県大石寺)だけがそのまゝ一派として残つた」
【宗義顕揚報恩大法会(昭和16年6月7日)】

▲『宗旨建立と750年の法灯』106頁=新宗制単独認可を仏祖三宝尊に奉告し、御報恩申し上げた法要。ここに本宗700年の伝統と信仰は護られた。

『畑毛日記』

▲『畑毛日記』(『慧妙』H6?)=『畑毛日記』は直達講の副講頭であった竹尾清澄氏の著作。直達講の講頭である三谷素啓氏は牧口会長を折伏した人で、牧口会長も直達講に所属していた。
●牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の藩合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった。
●牧口氏が折伏教化して、写真に撮った御本尊を入信者に与へていたとか、自分の肖像を飾らせたとか、出征兵士が氏の写真をお守りとして所持したとか、噂された

『特高月報』に記載された日恭上人から某師への書簡(第4信)

▲日恭上人から某師への書簡(第4信)(『慧妙』H6?)=當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候

御書削除
【御書刊行と垂迹説】

▲院第2177号(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
【字句削除】

▲学第8号(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
御書全集の刊行を停止し、御書の字句削除を発表した理由は、当時の国情により、誤解・反発を招かぬように、との配慮にすぎない。
また、刊行を停止し字句を削除するといっても、「時代に適さぬから不要」としたのでもなければ、「御金言の内容を否定」したのでもない。法難を引き起こす口実を与えないよう、このように発表されたものである。
なお、削除の対象とされた箇処は、一般的な本地垂迹説の説かれた箇処や、皇室が臣下に成敗された箇処などであり、日蓮大聖人の仏法の本質とはあまり関係のない部分ばかりである。
創価学会が言い掛かりを付けている、「日蓮大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた」という『聖人知三世事』の箇処は、他の部分と同様に、神祇(じんぎ)観に関連することが説かれているから対象となったのであって、何も「御本仏としての確信」を否定したわけでも何でもない。
事実、『撰時抄』の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」の御文や、「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」等の、御本仏としての御確信を説かれている御文は、削除の対象には入っていないのである。
また、この「削除通達」が、本当に本宗の僧俗によって実行されたのか、どうかも、現在ではわからない。
というのも、冨士学林図書館に所蔵されている『祖文纂要』には、削除の痕跡(こんせき)など全く認められないからである。
このことから推測すれば、他の僧俗においても、実際に削除を行なった人はまずいなかったであろう、と考えられる。
つまり、この「院達」は、軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう。(『慧妙』H15.1.1)

「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」と書かれた観念文

▲「日蓮正宗勤行式」(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>WS060907)
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初座天拝で「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」を初め、歴代天皇に敢えて「感謝」をしている点(中略)要するに、軍部政府の弾圧を恐れて、教義を改変して御観念文を改竄したのである
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当時の宗門が行なった御観念文の改訂は、世情を考え、仏法に違背しない、許容範囲内での改訂である。したがって、「国家神道に領導された国家権力に屈し」云々という学会の疑難は、まったくの的外れである。
まず「皇祖天照大神・皇宗神武天皇」等の語であるが、『神国王御書』に
「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う」(御書1298頁)
と御教示のように、大聖人は、国王(天皇制の時代ならば天皇)が崩御(ほうぎょ)した後、天界に生じて善神となることを明かされている。つまり、日本でいえば、天皇家の祖先(皇祖)が天照大神等の諸神として善神に連なることは、法義上当たり前のことであって、邪義でも何でもない。
諸天善神を単なる"宇宙に具(そな)わる働き"としか見られない、創価学会の浅薄な生命観、また崩御した国主を諸神とする御文証すら知らずに「御書根本」と喚(わめ)く不勉強ぶり、大いに笑うべきであろう。
さて、当時の御観念文は、さらに続けて「皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」となっているが、諸天善神は、法華守護の働きと、国土守護の働きを兼ね備えているのであって、その文証は御書中にも繁多である。
当時、日本は天皇制であり、まさに「皇国」と称していたのだから、「皇国守護の日月天等の善神」とは、国土守護の諸天善神であって、これまた邪義でも何でもない。(『慧妙』H15.1.1)

▲御観念文(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>WS060907)
◆「通諜」を偽造したのは、いったい誰なのだろうか。そのヒントになる言葉が「通諜」の文中にある。
「天拜」という言葉である。創価学会員にとって、戦時中に入信した者であっても「天拜」というのは聞き慣れない言葉である。「天拜(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じるのである。(『地涌』第61号H3.3.2)
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@これは、『地涌』(学会側怪文書)が、戦時下の学会が神札受け取りを会員に指示した「通諜」を偽物と断定する理由の1つである。もし、この記事が正しいのであれば戦時中の学会員は「天拝」の意味を知らなかったということである。
Aしかし一方、学会員がインターネット上で出してきた当該教本には、しっかりと「初座 天拝」と書かれている。
当時の学会は独自に教本を作成していなかったから、新入会者は正宗寺院において教本を購入していたはずである。だからもし、当該教本が実際に正宗寺院において販売されていたとすれば当然、学会員も購入し使用していたことになる。昭和29年当時でさえ学会は「祈念し奉る天皇陛下云云」と書かれた教本を使用していた事実(下記◆)から考えても、宗門が当該教本を販売しておれば学会も使用していたはずである。とすれば学会員が「天拝」の意味を知らないはずはない。
要するに、@Aが両立するためには、戦時中の学会員は「初座 天拝」と書かれた当該教本を使用していなかったことになる。その理由は宗門において当該教本を広く販売しなかったからに他ならない。
@がウソだとすれば学会は、自分達が非難している教本を使用していたことになる。また、「通諜」を偽物だとする根拠の1つを失うことになる。
◆次に、観念文について話をする。この観念文は、いちばん大事なところです。
まず東の方を向いて「生身妙覚自行の御利益云云……法味倍増の御為に」と御観念する。御本尊様を受持するがゆえに、二聖二天の加護を受けるのは、まことにありがたい、と心に念ずるのである。
ところが、このとき口で観念文を唱えながら、表を通る豆腐屋のラッパを聞き、あいつずいぶんかせいでいるなと心で思うと、豆腐屋を御観念していることになる。なお、観念文とは、そのとき心に思っていることを観念というのである。だから、そのときは、豆腐屋のやつすごくもうけているなというのが、初座の観念文になってしまう。
第4座にのぞみ、私は「祈念し奉る天皇陛下云云」〔注〕とはやらない。ここに学会精神がある。天皇にやってもらって、広宣流布を願うようなことをやっていない。やってもらうのではなく、天皇に正法を持たしてあげるのが、われわれである。
ゆえに、私は4座において、
「現在、日本は苦悩のうちに沈んでいる。大慈大悲の御本尊様、願わくは全国民にお姿を拝ませたまえ。東洋の民衆は、苦悩におちいっている。御身ならずとも、御名を聞こしめさせたまえ」
と私は祈念している。(中略)(昭和29年2月27日 東京・豊島公会堂)
〔注〕以前の4座の観念文は「天皇陛下云云」となつていたが、現在使われている勤行要典では「祈念し奉る一天四海本因妙、広宣流布、大願成就御祈祷の御為に」となっている。(『戸田城聖全集』第4巻120頁〜)
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「現人神」であった天皇は昭和21年に「人間宣言」をし、さらに翌年施行された新憲法によって、主権を失った。昭和29年の時点で御観念文中に「祈念し奉る天皇陛下云云」と記載されていたとすれば、この教本は戦時中に発行されたものであろう。とすれば、「皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄(かいざん)(学会の疑難)」したという経本を使用した事実はなかったのではなかろうか、と思われる。
また、戸田会長は当時の教本の4座の観念文に不満をもっていたようであるが、それでもその教本を自身も使用し、会員にも使用させていたことが分かる。さらに、「私は4座において」「現在、日本は苦悩のうちに沈んでいる……」「と私は祈念している」と指導していることから考えて、戸田会長の"自己流"の観念文を会員には徹底していなかったことが伺える。
つまり、戸田会長は「祈念し奉る天皇陛下云云」と記載されていた4座の観念文に不満を抱き自身は用いなかったものの、教本自体は使用し、会員にも使用させていた。さらに4座の観念文を用いないことを組織的には徹底せず容認(黙認)していたのである。しかも、これは戦後のことである。

開戦直後の訓諭

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宗内一般
本日米国及英国ニ対シ畏(かしこ)クモ宣戦ノ大詔(たいしょう)煥発(かんぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エズ(中略)本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク
聖慮(せいりょ)ヲ奉体(ほうたい)シ仏祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛練ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古(ぜんこ)未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ
右訓諭ス
昭和十六年十二月八日
日蓮正宗管長 鈴木日恭
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▲開戦直後に出された訓諭(写真=<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)
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現宗門は、平然と言っています―「宗門に格別の戦争責任はない」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)
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厳しく言えば、戦争責任は当時の国民や、ほとんど全ての団体にあった、ともいえる。しかし、当時の宗門が、宗教団体として突出して戦争に協力した訳ではない。
●1941年(昭和16)12月8日に、米英両国に対して宣戦を布告する詔書が渙発されたので、文部大臣の訓令に依って、同日付けで管長金光攝胤の諭告が達示された。(<金光教が発した通牒等>/<金光教>WS070625)
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同様の訓諭が同日に金光教からも出されていた。これについて金光教では「文部大臣の訓令に依って」「達示された」と説明している。ということは、当該訓諭は宗門において自発的に出されたものではなく、当局の指示に基づいて他の宗教団体と歩調を合わせるために形式的に出されたことが分かる。
学術的にも、戦時下の宗教団体の戦争協力について論じられている。その中で、日蓮正宗の戦争協力を取り上げている事例など、ほとんどないといってよい。インターネットで検索しても、宗門の戦争協力を批判しているサイトは、決まって学会関係者が主催するものである。
学会員の中には"宗門が批判されなかったのは学会が弾圧された歴史のおかげ"などとと主張する者もいるようだが、根拠のないことである。真面目な(特定の団体を攻撃するために作成されたのではない)研究では、戦争協力についても、弾圧の事実についても客観的に提示している。だから、宗門の戦争協力が突出しているなら、そのような指摘があるはずである。学会のような弱小団体の弾圧があったことで宗門の戦争協力が矮小化されるなどということはありえないのである。
●大東亜戦争に入ると各宗派は競うように「戦時布教方針」をたて、勤労報国隊や軍費献納運動に走った。各宗教宗派の独自性とヒューマニズムは見失われ、戦争協力の翼賛宗教に転落していった。みんなが知っているところだ。(『月刊住職』H8.4)
●(※国家神道は)自らを「超宗教」の高みに祭り上げ、他の宗教は国家神道を侵さない限りにおいてのみ存在を許す、という排他性・偏狭さが実際だった。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

神宮遥拝(ようはい)


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昭和十七年十月十日
日蓮正宗宗務院
住職教師教会主管者殿
今般文部次官より官文三三四号を以て別記の通り通牒有之たるに付御承知の上其趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度
記 官文三三四号
文部次官印
日蓮正宗管長殿
神嘗祭当日神宮遥拝に関する件
神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々
神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て
神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度
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▲神宮遥拝を伝える『大日蓮』(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
<神宮遥拝に関する通知>
>この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布にほかならない。また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたのである。
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無用の混乱を避けるための形式的な通知に過ぎない。宗内において神宮遥拝をしたなどという事実はない。一方、牧口会長は自分の言葉で、神社参拝を容認し、わざわざ書籍として出版している。↓
●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とある以上、実際に「お礼、感謝の心を現はす」ために「靖国神社へ参拝」していたことは間違いない。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)
<一般信徒への徹底>
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当時、宗門は、文部省から「本山や末寺の『住職』、『在勤者』に神宮遥拝(ようはい)をさせるべし」という要求を受け取っていました。しかし、そこには一般信徒への言及は、まったくありませんでした。ところが、宗門はこの要求を積極的に受諾、意図的に拡大解釈し、一般信徒すべてに神宮遥拝(ようはい)を要請したのです。それは、同「院達」そのものに明示されています。「神嘗祭(かんなめさい)當日神宮遥拝(ようはい)に関する件」と題された、この「院達」には、文部省からの要請が引用されているのです。文部省の要請は「『職員』をして當日(とうじつ)・・・神宮を遥拝せしむる様(よう)」というものでした。これにも拘わらず、同「院達」には「其趣旨(そのしゅし)を檀信徒一般に徹底せしむる様(よう)」と要求しました。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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@官文記載によれば「神宮を遥拝せしむる」対象は「貴(学、校、所、会)職員」である。これを受けて院達が通達したのは、当該官文の「趣旨を」「檀信徒一般に徹底」せしむることであって、「神宮を遥拝せしむる」ことではない。
Aただし、神宮遥拝は国民全員が行うべきことであったから、当局の趣旨は各団体を通じてその構成員全体に神宮遥拝を通知することにあったはずである。<ふうふうさんのウエブナビ>では「貴(学、校、所、会)職員」とあるのを表面的にとらえて「職員」のみに徹底すればよかった、としているが、それは当局の趣旨に反することであったろう。
Bいずれにせよ、当局の通知を形式的に機関誌に掲載したということで、宗門関係者が実際に神宮を遥拝したという事実はない。
◆(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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宮城遥拝を行うとは単に、皇居に礼をすることではない。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)と現人神である天皇に対する拝礼であり、その根底にはもちろんのこと神道がある。(『地涌』第33号)
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学会は会合の度に「現人神である天皇に対する拝礼」である宮城遥拝を行っていた。上記官文は、学会のような小さな組織には通知されなかったであろうが、もし、同様の通達が学会に来ていたらどうしただろうか。「根底に」「神道がある」宮城遥拝を実際に行っていた学会のことだから、形式的な内部通達くらいはしていただろう。

昭和18年6月25日付「通諜」
【昭和52年頃出回ったとされる「通諜」のコピー】

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/zuhan/668.html
▲『地涌』第668号
【「通諜」のカラー写真】

▲『慧妙』H5.6.1=「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。」
【「通諜」の作者?による文書】

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/zuhan/668.html
▲『地涌』=「『通諜』を書いた法華講員・S(故人)の自筆文書」だそうな。(すだち)
【「通諜」の筆跡】
A:学会が出してきた「通諜」のコピー=昭和52年頃出回ったという。昭和18年6月25日に戸田理事長名で発せられた通牒。神札を粗末に扱わないように指示されている。
B=学会が出してきた文書(ここでは「S文書」と呼ぶ)。作成者とされる法華講員S氏が、「通諜」も作成したという。
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A



B



←「心」/A「通諜」、B「S文書」
▲「心」については、Aは小さい点(線)が2つとも短く、離れている。これに対してBは2つの点が長く曲がっている。さらに2つがつながっている(または、間隔が短い)。
A
B
←「義」/A「通諜」、B「S文書」
▲「義」については、Bの「
」はAに比べて水平に近く、しっかりはねている。全体的に言えることだが、「
」について、Bはしっかりはねているのに対し、Aは、はねていない場合が多い。
A
B
←「誠」/A「通諜」、B「S文書」
▲「誠」については、Bの「
」はAに比べて長く傾きが大きい。また、しっかりはねている。書き順最後の点(線)も、Aに比べてBは極端に長い。
A
B
←「城外」/A「通諜」、B「S文書」
▲「外」については、Aは「ト」の横線が真っ直ぐ斜めに下がっているが、Bは曲線で右上がり。見た感じも全く異なる。「城」については、ABで「土」の形が異なる。また、Bの「
」はAに比べて長く、しっかりはねている。「
」に交叉する線もAに比べてBは極端に長い。全体的に、「
」については、Aははねない場合が多く、Bはほとんどはねている。この特徴は「感」「誠」「職」「義」「戦」において顕著であり、両者の癖の違いがはっきり出ている。
★「
」は、本来はねる文字である。それを、一方でははねる場合が圧倒的に多く、他方では極めて少ない。本来はねる文字であるから、"正式な文書では丁寧に書いたためにはねて、私的なメモでは簡略化してはねなかった"ということであれば、考えられないこともない。しかし、この場合は逆である。組織内部への伝達用とはいえ、多くの人の目に触れる重要な文書の文字ははねていないのに、私的なメモ(Bはどうみてもメモ書き)の文字はしっかりはねている。これは一体どういう訳か?考えられる答えは"AとBは別人が書いたもので、Aの文書にはねない文字が多いのは、筆者本来の癖による"ということである。
A
B
←「戦」/A「通諜」、B「S文書」
▲Bの「
」はAに比べて長く、しっかりはねている。
A
B
←「感情」/A「通諜」、B「S文書」
▲AとBでは、「情」の書体が全く異なる。「感」については、Bの「
」はAに比べて長く、しっかりはねている。「
」に交叉する線もAに比べてBは極端に長い。
A
B
←「職域」/A「通諜」、B「S文書」
▲AとBでは、何故か「職」の字体が異なる。
A
B
←「てへん」/A「通諜」、B「S文書」
▲Aの「折」「扱」ともにはねていない。Bは"てへん"だけでなく「斤」もはねている。Bの場合、他の文字の"てへん"もはねていると思われるが、画質が悪く、不明。
A
B
←「月日」/A「通諜」、B「S文書」
▲Bは全体に右に傾いている。またBは「月」が極端に細い。
A
B
←「と」/A「通諜」、B「S文書」
▲Aは「と」の縦線が短いが、Bは目立って長い。またA「と」の第2画はまるみを帯びているのに対して、Bのそれはとがった感じ。
A
B
←「外」/A「通諜」、B「S文書」
▲Aは「ト」の横線が真っ直ぐ斜めに下がっているが、Bは曲線で右上がり。見た感じも全く異なる。
A
B
←「殿」/A「通諜」、B「S文書」
▲Aは左半分が「殳」に比べて極端に小さいが、Bは左右ほぼ同じ大きさ。また左に延びる線の長さもAは短く、Bは長い。
【「天皇」の語】

▲『大善生活実証録』(『慧妙』H5.9.16)=文中に「天皇」の語がいくつか出てくるが、いずれも最上部にはない。

戦争協力
【老杉200本を供出】

▲昭和19年1月8日付『静岡新聞』を紹介する怪文書(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)
【物資の供出】

▲昭和19年1月14日付『静岡新聞』を紹介する怪文書(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)
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昭和19年1月14日付『静岡新聞』の記事。大石寺は、軍備の需要に対して、これに、旺盛に応じました。寺内の仏具類のみならず、建造物の屋根等までも軍に差し出しました。題字には「銅板屋根もお役に」、「六百年の歴史語る大石寺で供出」、「大石寺の佛具類―大梵鐘と共に應召(おうしょう)」、「釣鐘類續々(ぞくぞく)應召(おうしょう)」等と描かれている。では、これは軍から要請されたものであったのか。そうではありません。同記事には、「寺院の協力に縣(県)感激」との題字も掲示されています。県を感激させるほどの供応―つまり、これらの供応は、宗門自らの積極的な意志で行なわれたのです。明らかに、大石寺は、戦争推進のためには、「大いなる模範」でした。そもそも、大石寺の御堂・三門の銅瓦は、軍部からの金属供出の対象から外されていたのです。それにも拘わらず、大石寺は、これらの供出を行なったのでした。当時の『大日蓮』には、「鬼畜米英撃滅のためにお役に立ちたい」旨の記述がなされています。しかし、これにも拘わらず、現在の宗門は言っています―「当時、宗門は、突出した戦争への加担はしなかった」と。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)
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>これは軍から要請されたものであったのか。そうではありません。同記事には、「寺院の協力に縣(県)感激」との題字も掲示されています。県を感激させるほどの供応―つまり、これらの供応は、宗門自らの積極的な意志で行なわれたのです。
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1●竹富島では、軍の防空壕のささえ木、大石部隊の港構築(西海岸の砂浜を掘り、暴風林の中まで水路港にしようと計画)のために、木材の供出が行なわれた。竹富島では、お嶽の木を伐ることはタブーになっているがそのお嶽のみごとなふく木も切り倒され、今度は住民の長期間心をこめて育成した最高の建築資材「キャー木」(イヌマキのこと)を強奪した。私のもの約80本、有田家のもの約200本。それらは30年木で直経約30センチ高さ約7、8メートルもある立派なものばかりだった。木材を供出したということで軍から「感謝状」を受けた有田のじいさんは、「これはただの紙切れではないか、30年間の苦労をどうしてくれる」といかりで体をふるわせ、泣いていた。(<沖縄戦の記憶・本館>WS070630)
●1942年に「家にある鉄や銅や金やダイヤモンドの製品を提供しなさい」と、命令がでました。なべ、かま、やかん、を残してすべて提出しました。いやがったり、かくしたりしたら、「非国民」などといって、罰したりしました。(<戦時中のkasiwaの様子>WS070630)
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強制的な供出であっても「感謝状」が出される。逆にいやがったり隠したりすれば「非国民」として罰せられる。つまり、戦時下の戦争協力は、表面上すべて自発的積極的な行為であり、感謝されるべきものだったのである。「寺院の協力に縣(県)感激」→軍から要請されたものではない→自発的に戦争に協力した、と考えるのはあまりにも皮相的な発想であることが分かる。
●終戦直後、憶えておられる方も多いと思いますが、東京・九段の靖国神社周辺や皇居前広場には、敗戦を詫びる人々の姿がありました。食うや食わずの困窮をものともせず「天皇さま、奉公心が足りず申し訳ございませんでした」「私たちの努力が足りませんでした」といつまでも頭を垂れている姿があちらにもこちらにも見られました。そのように教育したのは国家神道であり国粋主義者だったわけで、今日を生きる私たちの目から見れば、そのように教育された人々は国家神道の犠牲者、15年戦争の被害者です。家を焼かれ人生を破壊され肉親を奪われながら、まさに被害者が加害者に「申し訳なかった」と詫びる構図をもって、国全体を統治していたのです。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)
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当時の国民は「積極的な意志」によって戦争協力をしていたのだ。宗教団体も例外ではなく積極的に戦争に協力していた。このような国家的風潮の中では、戦争に反対であっても、表面上は積極的自発的な戦争協力をしなければならなかった、といえる。「寺院の協力に縣(県)感激」とあるのは、静岡県下では最大級の大石寺が"積極的に"物資を供出したことを県民に宣伝する効果を狙ったものであろう。全国に末寺を持つ総本山といえば、県下では大石寺を凌ぐ程のものはなかったのではないか。その大石寺が県下の宗教界の先頭に立って戦争協力をするのは、むしろ当然視されていたはずである。すなわち、すべての戦争協力は積極的自発的になされるべきものであり、それに対して当局は感謝して受け入れる、という構図が出来上がっていたのだ。
>大石寺の御堂・三門の銅瓦は、軍部からの金属供出の対象から外されていたのです。それにも拘わらず、大石寺は、これらの供出を行なった
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これについて当該記事の原文を是非とも示して欲しいものである(画像では確認不能)。
●大東亜戦争に入ると各宗派は競うように「戦時布教方針」をたて、勤労報国隊や軍費献納運動に走った。各宗教宗派の独自性とヒューマニズムは見失われ、戦争協力の翼賛宗教に転落していった。みんなが知っているところだ。(『月刊住職』H8.4)
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宗教界全体が「競うように」「戦争協力の翼賛宗教に転落」していったのである。軍部から命じられたから供出した、というだけでは全国に末寺を有する総本山としては"消極的"だという批判があったのであろう。
>これにも拘わらず、現在の宗門は言っています―「当時、宗門は、突出した戦争への加担はしなかった」と。
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●戦時下最も必要な金属類は、昭和16(1941)年8月に勅令が出され、強制回収が始まった。当初は工場などが対象であったが、その後、寺院等も指定施設となり、中でも梵鐘は回収範囲の筆頭にあげられた。(<発見!三重の歴史>WS070630)
●昭和17年1月12日、柏町は、兵器に使うための必要な鉄や銅などが不足しているため、寺のつり鐘や公園の銅像、各家庭の金属製品までを供出させました。(<戦時中のkasiwaの様子>WS070630)
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柏市(千葉県)では、既に昭和17年に「寺のつり鐘」が供出されている。大石寺の金属供出が昭和19年からだとすれば、全国的には、むしろ遅きに失した感もあるが。これでも「突出した戦争への加担」だと言えるのだろうか?
【本山・末寺の積極的な戦争協力】

▲昭和19年6月9日付『静岡新聞』を紹介する怪文書(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070625)=これは、『静岡新聞』という一地方紙の報道である。しかも「富士宮支局」が書いた記事である。全国的には、些細なことであっても富士宮近辺のニュースとしては大きなことであったのだろう。しかも、これを大々的に取り上げることは『静岡新聞』にとっても戦争推進に一役買ったことになるし、読者の戦争意識を高揚させる意義もあったろう。すなわち、この記事をもって「戦争に突出した加担」があったとはいえない。
また、上記1●の証言からも分かるように、個人が行ったしぶしぶの供出であっても「感謝」されるのである。そうであれば大石寺という、まがりなりにも全国に末寺を擁する総本山が行った戦争協力であれば、仮令それが嫌々であっても「絶賛」されるくらいのことは、あったであろう。
●国体を否定し、神宮または皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として、結社を組織したるもの、または結社の役員その他指導者たる任務に従事したるものは無期または四年以上の懲役に処し、情を識りて結社に加入したるものまた結社の目的遂行の為にする行為をなしたるものは1年以上の有期懲役に処す(治安維持法)
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この法律から新聞紙法や出版法などに至るまで、当時一般的な報道の規制を目的として取り締まるための法律は、電信法まで含めると26の多きに及びました。つまり、天皇制の下に言論の自由などは望むべくもなかったのです。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)
ちなみに『朝日新聞』は、軍用機の献納を読者に呼びかけていた(<陸軍愛国号献納>参照)。当時の新聞自体が戦争協力を推進し、国民に戦争協力の必要性を訴える教育的機能を積極的に果たしていたのだ。そうであれば、当該報道も目的の第一義は読者の戦争協力への意識を高揚させることにあったことは容易に分かることである。大石寺の戦争協力を大々的に報じることは、新聞社の使命でもあった訳で、記事に書かれた主観的評価を文字通りに鵜呑みにすることはできないのである。
