歴代上人誹謗粉砕
■17世日精(にっせい)上人誹謗
【『秘釈独見』】

▲『秘釈独見』福原式治記 享保2(1717)年妙喜寺蔵(『大白法』H16.5.1)=筆者の福原式治は、加賀法華講中の中心信徒。第17世日精上人をはじめ、御歴代上人より直接賜った御指南などが詳細に記録されている。本文にもあるように日精上人の御指南を拝して大奮起し、逆境の中、折伏を行じていった。また、総本山の諸堂宇の配置、旧江戸常在寺の御宝前記録、歴代上人書状の写しなども含まれている。なお、3月28日に立宗会を奉修していた記録もある。
●精師御教語に曰く、今世の愚昧の人を教化して受法せしめん此の功徳は八万四千体の白仏を造て供養し給仕する功徳よりも勝れたる也云々。一人受法するときは八万四千の煩悩即菩提となる。何んそ木仏八万四千体造立するとも此の功徳に及ぶ事を得んや。
-----------------------
これは現代文に直せば、
「日精上人の御教えのお言葉に次のように仰せられていた。今世の愚昧(愚かで仏法に昧(くら)い)の人を教化して御授戒を受けさせて信仰させる此の功徳は八万四千体の白仏(仏像)を造って供養し給仕する功徳よりも勝れている。一人が信仰受法する時は八万四千の煩悩即菩提となる。たとえ木の仏像などを八万四千体も造立しても此の功徳に及ぶ事はない」
ということであって、日精上人が、御自分が教化折伏した金沢の信徒に対して、造仏の修行よりも折伏の功徳が勝れていることを、はっきりと御教示されている。それはつまり折伏を勧めることによって、造仏を制止されているのである。この文書によって、日精上人の実際の御化導が、造仏を勧められていなかったことが確定したばかりでなく、折伏を強く推進されていたことが明確となったのである。
■53世日盛(にちじょう)上人誹謗
【履歴書】

▲「日盛上人自筆の履歴書」(学会系WS)=大石寺の大火の翌日にあたる慶応元年2月29日、「同寺辞職」と記されている。「英師再住」までの約2ヵ月間、猊座の空白があった。(同)
-----------------------
仮に、この資料が本物だとしよう。これは、日盛上人がお書きになられたことであるから、辞職の日を「2月29日」とされたのは、同上人の主観であろう。日盛上人が大火後も、しばらくは大石寺におられ、復興の手立てを探られておられたことは、現存する下記資料(●)から明らかである。しかし、諸般の事情により、思うように事が運ばず、万やむを得ず、大坊を辞し下之坊へ移り、後に下野平井信行寺へ赴かれたのである。
では、なぜ、辞職の日を「2月29日」とされたかと言えば、辞職の原因が大火後の復興策の行き詰まりにあったことと、管長として大火の責任を取る意味を込められて、敢えて大火の翌日を辞職の日とされたのではないか。
「2ヵ月間、猊座の空白」などというが、宗務行政に関しては宗務院があり、法門上の問題についても御隠尊猊下がおられるのだから、何の問題もない。
●此度(このたび)、普請に取り懸(か)かり候(日盛上人御手紙=慶応元年4月/『慧妙』H6?)
-----------------------
日盛上人が火災後も大石寺で復興の指揮を執っておられた証拠
●已に普請に取り掛かるべく種々と支度手配いたし候ところ、大難に大難重なり大衆一同より故障出候(いでそうろう)耳(のみ)ならず、霑師は御出府、何とも混雑、将にまた、檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依なり。またまた内謁のところ、なかなか難しき一条之有り。拙僧すること為すこと、皆悪しく相なり、是には困り入り候(第53世日盛上人御手紙=慶応元年4月/『慧妙』H6?)
-----------------------
「大衆一同より故障」が出て、さらに「檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依」という状態により、大石寺復興に支障を来(きた)されていたことがうかがわれる。
●日盛師も去月(五月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候(第52世日霑上人御手紙=慶応元年6月/『慧妙』H6?)
-----------------------
日盛上人が下之坊へ隠居されたのは「去月(五月)七日」と記されている。
【「口述の覚え」】

▲日盛上人の筆による「口述の覚え」(『慧妙』H6?)=明治元年(火災から4年後)に認められた。
「一、本山より諸講中へ御序(つい)での砌、去る年中、悪書触れ流れ候は取り糾し候処、間々心得違いの者より出候様の御状御遣わしに相なり、その上、諸方より御請上り候を、内々にて拙僧披見仰せ付けられ候はば、早速御両師へ是迄(これまで)の行き違い廉々(かどかど)、書状を御詫び使僧を以て申上ぐ可く候事」
と、それまで日盛上人のもとに「悪口書」が流されていたが、それは心得違いの者の手によるものであったことが明らかになったので、その誤解による行き違いを、率直に日英・日霑の両上人へお詫び申し上げていることが拝されるのである。すなわち、『新報』が両上人の「確執」とした内容は、悪心を抱く人々の策謀により、両上人の間に生じた、一時的な"誤解"だったのである。
■60世日開上人誹謗
<達磨の広告>

▲『白蓮華』(第8巻第3号)掲載の広告(『地涌』235号)=●([質問]謗法払いのことについて、子供がオモチャにしているダルマとか、掛け軸とかというものは謗法になりますか。)そんなのは謗法になりません。おいてもよろしい。(『戸田城聖全集』第2巻125頁)
-----------------------
開運の縁起物として宗教的意味合いをもつダルマの置物でさえ謗法ではないのである。広告に達磨大師の絵が掲載されていても問題ないことは当然である。
<勅額降賜>

▲昭和6年3月16日の池上本門寺における会議=右端が田中智学、2人目が身延派管長・酒井日愼(『地涌』409号)
************************************************************
身延派管長だった酒井日愼が、立正大師号の「立正」の文字を天皇に直接書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟」(祖廟ともいう)に掲げようと目論んだのであった。(中略)酒井はそうした思惑を胸に秘め、国柱会総裁の田中智学に勅額降賜についての相談をした。
------------------------------------------------------------
『地涌』自身が認めているように、勅額降賜は身延派と田中智学らが計画したことであり、日蓮正宗とは無関係である。ただ、文部省が勅額降賜にあたって他門からの苦情の出ることを心配し"身延に大聖人の廟所がある"ことを確認する念書の提出要請があったということである。

▲身延山久遠寺に下賜された勅額(『地涌』409号)
************************************************************
御廟所を身延山久遠寺と日開(上人)が認めたために久遠寺に下賜された
------------------------------------------------------------
●大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)
●甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道〔法名日円〕は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。(『富士一跡門徒存知事』全集1602頁)
-----------------------
大石寺にあるのは大聖人の墓(正墓)、身延にあるのは廟所。これは日興上人時代からの認識であった。日開上人は、このような認識に沿って、文部省からの要請に答えて"身延に大聖人の御廟がある"という趣旨の念書を提出されたまでのことである。
■61世日隆上人誹謗

▲総監時代の日隆上人のスキャンダルを報じる『読売新聞』(改革同盟『富士の清流』H9.9.1)=何時の世にも獅子身中の虫はいるものである。信心のない輩が敵対者を陥れるために告発をした可能性は否定できない。その証拠に「全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際」とあるように、このとき宗内は大きく混乱し、立場を異にする者たちが、いがみ合っていたようである。また、スキャンダルの内容についてもウソだった可能性は大きい。その証拠に、『富士の清流』が掲載した報道は、「背任罪」で書類送検されたという事実でしかない。おそらくは、事実無根または証拠不十分ということで不起訴となったのではないか。何故なら、もし、起訴→有罪ということになっておれば、それなりの報道があったであろうから学会側が見逃すはずはないからである。
■62世日恭上人誹謗

▲当時の大坊建物の配置図(『慧妙』H14.9.16)
************************************************************
大奥2階の床が焼け落ち、日恭上人は1階に落ち、意識のあるままカマドにはまり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腸(はらわた)が残った死体が、そのことを物語っている。
------------------------------------------------------------
●(図を指しながら)ちゃんとしたカマドは、こちら(※台所の隣の土間・図のA)にあるんですよ。で、猊下の御遷化になられた場所はこちら(※大奥2階の仏間・図のB)ですからね。まったく離れています。(中略)カマドまでは遠いですよ。大奥の小さな台所にあったのは、せいぜい七輪(しちりん)ぐらいのものでした。ですから、「カマドにはまり込み」なんてこと、実際も全くありませんでしたし、もとより、はまり込みようがないですよ。(当時の総本山に詳しい方『慧妙』H14.9.16)
●日恭上人の御遺体の下には、ちゃんと畳が残っていました。もちろん畳の燃えさしの下には、梁(はり)や1階の天井部分などにあたる焼けこげた材木などがありました。その下にはさらに2階部分の瓦礫(がれき)が−2階建ての建物が焼け落ちたのですから当然です。(当時、消防団員として活躍していた志村高氏『慧妙』H14.9.16)