■入信神話のウソ
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昭和22年8月14日、池田大作氏は、小学校時代の同級生に誘われ、東京都大田区蒲田にある三宅穣(ゆたか)氏宅で行われていた創価学会の座談会に出席した。その座談会で戸田氏と運命的な出会いをして入信を決意。その喜びを即興の詩に託して読んだという。
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▲昭和32年10月18日付『聖教新聞』(『慧妙』H19.5.1)
●私が信仰したのは、丁度今から10年前の8月24日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった2階の8畳と6畳の2間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです(池田大作『聖教新聞』S32.10.18/『フォーラム21』H15.1.1)
●一応信仰したけれどずい分悩みました。「えらいことをやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気違いだと思うだろうなあ…」などと、ずい分苦しみました。(池田大作『聖教新聞』S32.10.18/『慧妙』H19.5.1)

▲昭和37年2月20日付『聖教新聞』(『慧妙』H19.5.1)
●ちょうど15年前に、小平教学部長と、それから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、たった3人だけの御授戒でした。それで私は、真ん中にすわらされてしまって、勤行がはじまったけれども、またひじょうに長い勤行で(笑い)、びっくりしてしまいました。それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったいない話ではございますが、そのときは信心は結構でございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします≠ニ、そういうように申し上げたのです。その場所で。(池田大作『聖教新聞』S37.2.20/『慧妙』H19.5.1)
いかがでしょうか。池田大作が「生」で語った、自分自身の入信当時の状況には、小平教学部長(当時)に折伏されたと、再三にわたって語っているのです。池田の入信に関わった人物の名前としては、「戸田先生」の「と」の字さえ出てきません。
しかも、「南無妙法蓮華経」がきらいで、御本尊下附を拒み、大幹部らが投獄されたことに恐れおののいて信心をやめようと思いつめていた池田大作――それが、いつの間にか戸田会長とは不思議な縁で結ばれていたことにしてしまい、「戦争に反対して獄に入ったか否か」を人を信用する基準にしていた、とまで平気で放言してしまうのですから、呆(あき)れて物が言えません。(『慧妙』H19.5.1)

■入信直後に出したラブレター
【文学青年(?)の"実力"がわかる池田の「ラブレター」】

▲『慧妙』H16.3.16=これによって即興詩のデッチ上げまでバレてしまった!?
【池田大作が三宅妙子氏に宛てて出したラブレター】

▲『慧妙』H16.4.1=「貴女のphotoを無理に頂いた私の心境を!」などと書く激励文がありますか?社会通念上、それは「ラブレター」と呼ぶのではないでしょうか。念のため、問題箇所を拡大して掲載しますので、よくご確認ください。
【入信当時の池田大作の文才を物語って余りある自筆の「詩」】

▲『慧妙』H16.5.16=これが、後に「世界桂冠詩人」などという称号を名乗って悦に入っている男の「詩」だろうか。しかし悲しいかな、この手紙は、まぎれもない池田の肉筆によるものなのである。一方、この「詩」と比較して、同時期に詠んだとされる「即興詩」があまりにも出来すぎている。しかも、その「即興詩」たるや、当時の池田が知り得るはずのない、戸田会長が後年に作った『青年訓』にソックリなのである。もはや、池田の入信神話がデッチ上げであることは、誰の目にも明らかであろう。

■貸し金業時代

▲肩で風を切って歩いていた当時の池田大作/右は大蔵商事時代の名刺(『週刊新潮』H15.12.18)

■"エレベーター相承"の虚構

▲『大白蓮華』昭和35年6月号(『慧妙』H18.12.1)=池田大作の会長就任を祝う森田・柏原の手記が掲載されているが、そこには「大講堂落成法要」も「エレベーター」も登場しない

▲『大白蓮華』昭和36年5月号の巻頭言(『慧妙』H18.12.1)=◆昭和33年3月1日、大講堂落成式の日、5階から、1階に降りるエレベーターの中で、先生は申された。
「わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おれと、お前だ。お前が、あとはしっかりするんだぞ」と(池田大作)

▲『人間革命』第12巻(『慧妙』H18.12.1)=◆エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」(中略)
それから戸田は、大きく頷(うなず)くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレべーターは6階に着いた
はて、「5階から降りる」途中だったのか、それとも「6階に上がる」途中だったのか。さすが"エレベーター相承"だけあって、降りたり上ったり、目まぐるしいことこの上ない。この目まぐるしさでは、"相承"もへったくれもなかろう。(『慧妙』H18.3.16)
(「5階から降りる」途中だったのを「6階に上がる」途中に変更したのは)いったいなぜか--、それは、"5階から降りるエレベーターの中で相承を受けた"と言ってしまった後で、肝心の昭和33年3月1日には、池田大作が戸田域聖氏と共に5階に行く理由が全くないことに気付いたからではないでしょうか。
というのは、じつは件(くだん)の『人間革命』にもチャッカリ書いてあるのですが、その日の大講堂5階は寺族の祝宴の会場となっており、戸田氏や池田大作にとっては"用のない場所"だったのです。当然、5階で2人を見た寺族もいるはずがありません。
そこで、辻棲(つじつま)を合わせようとして、「5階から1階に降りるエレベータの中」ではなく、「1階から6階に上がるエレベーターの中」に変更した、というのが、話が「下ったり上ったり」した理由だと思われます。(『慧妙』H18.12.1)

■池田は「仏法西還」の先駆にあらず

▲海外広布の進捗状況を伝える『大白蓮華』S35.8(『慧妙』H16.4.1)=そこには、「昭和35年4月調べ」として、「インド2世帯」と明確に
